. 25人の子供を殺して埋めた「エリート」のおぞましき屈折…西郷山公園事件の全貌
25人の子供を殺して埋めた「エリート」のおぞましき屈折…西郷山公園事件の全貌
25人の子供を殺して埋めた「エリート」のおぞましき屈折…西郷山公園事件の全貌

25人の子供を殺して埋めた「エリート」のおぞましき屈折…西郷山公園事件の全貌

2020.12.25
  • #不正・事件・犯罪
25人の子供を殺して埋めた「エリート」のおぞましき屈折…西郷山公園事件の全貌

穂積 昭雪

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東京都目黒区の閑静な住宅街内にある自然豊かな公園「西郷山公園」。1万549㎡もの面積の広さを誇るこの公園は、テレビドラマ『東京ラブストーリー』などのロケ地としても使用されており、東京名所のひとつとなっている。

公園として整備・開園されたのは1981年(昭和56年)と今から40年ほど前のことで、それまでは「西郷山」の名前が示す通り、元は幕末から明治の武士・政治家の西郷隆盛の実弟である西郷従道(さいごう・じゅうどう)が住んでいた邸宅であった。そんな西郷山で世にも奇怪な猟奇事件が発覚したのは1933年(昭和8年)のことである。

西郷山公園〔PHOTO〕WikimediaCommons -AD-

「貰い子殺し」とは

1933年(昭和8年)3月10日、警察は東京都本所区(現在の墨田区南部)の簡易旅館に宿泊していた33歳の男性・川俣初太郎を逮捕した。

容疑は殺人および死体遺棄だった。同月1日、東京都深川区(現在の江東区北西部)の空地で生後2か月ほどの男児の絞殺死体が風呂敷に包まれた状態で発見されていたが、この男児を殺害したのが川俣ではないか、というのだ。

川俣は1928年(昭和3年)に「貰い子殺し」の罪で逮捕された過去があり、再び「貰い子殺し」に手を染めた疑惑がもたれていたのである。

貰い子殺しとは、保護者が何らかの事情で育てられなくなってしまった子供を、金銭と引き換えに業者が保護者から預かり、その後育てずに殺害してしまうという犯罪のことである。昭和初期には同様の犯罪が全国で発生し大きな社会問題となっていた。

現に昭和初期の東京で発生していた主な「貰い子殺し事件」には1930年(昭和5年)「七乳児絞殺死体トランク詰め事件」(7人の嬰児の死体が入ったトランクを新宿駅の荷物預り所に預けていた人物が逮捕された事件)、同年の「板橋貰い子殺し事件」(「岩の坂もらい子殺し」とも呼ばれる。板橋区のある地区で、1年間で40人あまりの嬰児が殺されたのではないかという疑惑がもたれた事件)など数多い。

このような恐ろしい貰い子殺しが相次いでいた背景には当時の法律事情がある。戦前の日本では堕胎および人工中絶は違法とされており、予定外に身ごもってしまった子供については、悲しい現実を受け入れる覚悟で出産するしかないというケースが非常に多かったのだ。

さらに避妊の方法が今ほど確立されてなかった昭和初期では、家の主人が雇っている女中に子供を産ませたり、不倫の末に産まれた子供たちも多かった。彼らは出生後に行く場所がなく、有償で誰かに育ててもらう、ないしは里子に出すしかなかったのである。

今となってはその全貌はわからないが、日本全国には川俣のように金のために子供を預かって殺す「貰い子殺し」で生計を立てる人間が多くいたのではないかと推察される。

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目黒区の西郷山に埋めた

逮捕後、川俣の泊まっていた部屋の押し入れからは1歳児の女児の遺体と衣類数点が見つかった。これで川俣の罪は確定したのだが、過去に同様の罪を犯している川俣のこと、まだ被害者がいるのではないかと警察は睨んでいた。

案の定、川俣は何度か嘘の供述をした後、殺した子供たちは「目黒区の西郷山に埋めた」ことを自供した。

警察が西郷山の雑木林をシラミ潰しにして調べたところ、丸裸の子供の死体がゴロゴロと出てきた。

この時発見されたのは男児8人、女児6人、性別不明が2人の合計16人。この時点で簡易旅館の押し入れの遺体含めて最低でも17人の被害者がいるという大量殺人が判明したのだ(きっかけとなった深川区で発見された風呂敷包みの死体は川俣の犯行である可能性が低いことが後にわかった)。

「西郷山に大量の嬰児の死体が埋められる」という事件は当時、全国紙の新聞にも取り上げられ新聞各社は連日のように本事件を特集。また同時に「川俣初太郎」という奇怪な犯罪者の素顔が報じられることになる。

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鬼畜のインテリ

川俣初太郎は栃木県のA村で生まれ、地元の高等学校を卒業。英語に興味を持っていた川俣は1919年(大正8年)に上京し、当時、神田にあった外国語学校で英語とスペイン語を学び優秀な成績で卒業した。その後は得意の外国語を活かして日本を離れインドネシアへと渡り、貿易の仕事に就いていた。だが、野心を持って外国へ出たものの商売がうまくいかず1年ほどで帰国。1924年(大正13年)には再び勉学の道を志し、早稲田大学へと入学している。

ここまでの経歴でわかる通り、20代の頃の川俣初太郎は頭脳優秀で外国語が堪能という、いわば成功者と言ってもいい存在であった。

さらに当時の各新聞には犯人として川俣の顔写真が掲載されているのだが、どの写真も戦前の猟奇殺人犯にしては珍しいスーツにネクタイという格好で写っており、顔も二名目俳優のようなルックスで人の目を惹いた。

それだけに、西郷山の事件が発覚した際には「失職のインテリが鬼畜の嬰児殺し」(1933年3月11日読売新聞より)といった強烈な見出しの記事が相次ぎ、世間の注目を集めるに至ったのだ。

さて、早稲田大学の学生として再起を狙っていた川俣のその後の人生は、まさに悲惨と言うほかない。せっかく入学した早稲田大学は学費が払えずに中退。その後は郷里である栃木に帰り、一度は結婚したものの、染みついたエリート意識故か仕事ができず酒浸りの毎日が続いた。その後も再起を目指し郷土を捨て1927年(昭和2年)に再び上京する。

だが、東京へ戻ったものの成功者の道から外れてしまった彼に仕事はなく苦しい生活のなか、川俣は「貰い子ビジネス」に興味を持ち、新聞に出ている「子供やりたし(子供差し上げます)」の三行広告を見つけては、広告主である産婆(現在の助産師)の元へと行き、1か月分の養育費として10円(現在の価格で5万円ほど)を子供の保護者から貰い受け、生活費を稼いでいた。

常にスーツ姿で気品ある川俣は、初対面の保護者から簡単に信用を得ることができ「貰い子ビジネス」に本格参入した。

だが、いくら英語や語学が堪能でも、川俣には「赤ん坊の育て方」のノウハウは持ち合わせていない。窮した川俣は預かった子供を首を絞めて殺害し江戸川区の土手に埋めることにした。

保護者から月々の養育費を貰う際は「赤ん坊は元気ですよ」「名前を付けて可愛がっていますよ」と嘘をつき、多額の現金を手に入れていたのだ。

この時の子供殺害は警察にバレてしまい、1928年(昭和3年)、川俣は殺人および遺体遺棄の容疑で逮捕されてしまう。懲役は4年であったが、この時は昭和天皇即位の恩赦により3年で出所。だが、味をしめた川俣は出所から1年後の1932年(昭和7年)から「貰い子殺し」を再開。より多くの子供を預かっては保護者から現金を手に入れ、用済みになったら嬰児を殺し、次々と西郷山へ埋めていたのだ。

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川俣の最後

話を1933年(昭和8年)の「西郷山事件」に戻そう。

逮捕された川俣は警察の前でもインテリ然とした態度を崩さず、現場検証の際にも好物のキャラメルをしゃぶりながら「ここじゃない」「あそこだ」「そんな掘り方をしてはいけないよ」と人を食ったような口ぶりで警察官に指示していたという。

また、連日の新聞報道により西郷山には物珍しさから連日多くの人だかりが出来ており、寒くなってくると、ギャラリー向けにおでん屋台などが連日やってきた。

さらに、事件発覚からおよそ1週間後の3月17日には、殺された子供たちの供養をするため目黒区の石工組合が協力して敷地内に「虐殺児童慰霊」と書かれたお地蔵さんが子供を抱えた像を作り、入口近くに設置した。だが、中には悪い大人もいるもので、敷地内で花束を5銭で売りつける業者が現れたほか、偽の賽銭箱を作るような不届き者が現れたため翌18日にはスピード撤去されてしまったという。

このように、西郷山事件は有名な場所だけに、ちょっとした騒ぎもあったのだ。

さて、数回にわたる西郷山の調査の結果、川俣が殺害し埋めた子供は先に見つかった16人と合わせて24人、簡易旅館で見つかった女児を合わせると、合計25人の嬰児の殺害が明らかになった。

〔PHOTO〕iStock -AD-

初犯時は恩赦で3年で出所できた川俣だが、25人もの罪なき子供を殺害した罪は重く、裁判を前に死刑は免れない状況であった。

川俣は最初こそ「おれは仕事で子供を殺した。それの何が悪い」「殺人がうまくいくよう観音様へ毎日お祈りしていた」「俺は悪くない。俺を見捨てた世間が悪いんだ」とふてぶてしい態度は相変わらずではあったが、日を重ねるごとに自身が犯した罪を反省することが多くなったという。

特に、栃木に住む郷里の母親には「最後まで親不孝をしてしまい大変申し訳ない」「私はあの世で殺した子供たちの霊を守るとともに今度こそ真人間になってお母さんに孝行します」といった内容の、自らが犯した罪を憎む手記が残されている。

死を前に、川俣初太郎はようやく人間らしい一面を取り戻せたのかもしれない。

エリートの道から外れ、私利私欲のために25人の罪なき嬰児を殺害した川俣初太郎は事件発覚から1年半後の1934年(昭和9年)9月23日に死刑執行となった。

現在、「西郷山事件」は「目黒貰い子殺し事件」とも呼ばれており、「夜になると赤ん坊の泣き声がする」といった怪談も報告されているという。

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令和時代の今、法律の見直しや医療の発達などにより、「貰い子殺し」や同種の犯罪はほとんど発生していない。だが罪なき子供を虐待ないしは殺害してしまう犯罪は現在も行われており、決して忘れてはいけない昭和の事件のひとつである。

※参考文献 『読売新聞』 『朝日新聞』 『残虐犯罪史』(株式会社東京法経学院出版) 『女性五十講』(改造社) 『大東京區分圖三十五區之内目黒區詳細圖』(日本統制地圖)

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