. じつは「大本営発表」以上に戦意旺盛だった「社説」…戦争当時、新聞は「沖縄戦」をどう報じていたか
じつは「大本営発表」以上に戦意旺盛だった「社説」…戦争当時、新聞は「沖縄戦」をどう報じていたか
じつは「大本営発表」以上に戦意旺盛だった「社説」…戦争当時、新聞は「沖縄戦」をどう報じていたか

じつは「大本営発表」以上に戦意旺盛だった「社説」…戦争当時、新聞は「沖縄戦」をどう報じていたか

2023.06.23
    じつは「大本営発表」以上に戦意旺盛だった「社説」…戦争当時、新聞は「沖縄戦」をどう報じていたか

    神立 尚紀

    カメラマン・ノンフィクション作家

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    太平洋戦争末期の昭和20年3月23日、南西諸島が敵機動部隊の空襲を受け、26日には米軍の一部が慶良間諸島に上陸。そして4月1日、猛烈な艦砲射撃ののち、米軍は沖縄本島南西部の嘉手納付近に上陸を開始し、民間人も巻き添えにした凄惨な戦いが始まった。あれから78年――。

    テレビもインターネットもない時代、人々が戦況を知る手段は新聞とラジオだけである。ラジオのほうの音源はほとんど残っていないが、幸い、新聞は各社のものが縮刷版などとして、現代でも国立国会図書館などで読むことができる。絶望的な戦況のなか、新聞は沖縄戦をどう伝えたのだろうか。情報量が総じて他紙と比較し多かった朝日新聞の紙面を中心に振り返る。(当時の新聞記事は新仮名、新字体に直して表記する)

    始まった沖縄戦「竹槍なくば唐手で」

    沖縄戦が始まるはるか以前から、新聞紙面の多くは戦況の記事で占められていた。朝日新聞の名物コラム「天声人語」も、昭和15(1940)年9月、「有題無題」と改題されたのに続き、昭和18(1943)年1月から20(1945)年9月までは「神風賦」に変わっている。昭和20年には用紙不足のため、新聞は1枚2面だけの簡単なつくりになり、娯楽、文化記事や広告の多くも掲載されなくなって、ほとんど戦争一色の紙面になった。沖縄戦が始まるよりも前から日本本土への空襲がはじまり、また日本の沖合いを遊弋(ゆうよく)する米艦隊への体当り攻撃(特攻)も繰り返され、紙面にはほぼ毎日、その種の記事が掲載されている。新聞だから、掲載されている記事は、前日以前の出来事についてのものである。

    昭和20年3月19日の朝日新聞2面には、〈国民学校(初等)を除き 全国授業を停止 向こう一ヶ年 増産へ、防衛へ、〉の見出しで「学徒総動員」の記事が掲載された。また3月22日には、〈硫黄島遂に敵手へ 最高指揮官陣頭に 壮烈・全員総攻撃 敵の損害三万三千〉との見出しで、硫黄島失陥が、最高指揮官栗林忠道中将の最後の無電とともに報じられている。

    3月28日、〈敵機動部隊の一部 慶良間列島(沖縄)上陸〉〈沖縄本島を砲爆撃 敵、更に本格的上陸を狙う〉との記事が一面トップに掲載された。いよいよ連合軍による沖縄侵攻が本格的に開始されたのだ。

    米軍の慶良間列島上陸を報じる昭和20年3月28日の記事 -AD-

    29日の一面には、〈満十七、八歳召集 召集規則改正公布 区域制限を撤廃〉として、日本全国の徴兵検査未済の満17歳、18歳の少年が、防衛召集、臨戦召集の対象になったとの記事が掲載された。同日の二面には、中央省庁との打ち合わせのため上京した、沖縄県内政部庶務課長への取材記事が掲載されたが、そのタイトルは 〈合言葉は一人十殺 竹槍なくば唐手(からて)で 老幼も起つ沖縄県民〉 とあり、内容も〈住居を焼かれたって、家財を失ったって、最後に勝てばいいではないか〉〈鉄砲がなければ竹槍で行こう、竹槍が折れたら唐手(空手)でいこう――この決意だ〉と、その意気はよしとしても、米軍の近代兵器を相手に竹槍や空手で戦えるとほんとうに思っていたのか、いま見れば正気の沙汰ではないような言葉が並ぶ。また、〈街に村に義勇隊〉と題する記事には、千葉県下の飛行機会社では男は竹槍、女は薙刀の訓練に励み、伊豆下田では町長を隊長とする義勇突撃隊が、静岡県では日露戦争で戦った在郷軍人の老兵を中心に「上澤護国隊」がそれぞれ結成され、八王子では「多摩神武隊」と称する隊が結成、武道の有段者を集めて町道場で練武を始めたなど、幕末にタイムスリップしたかのような内容が記されている。

    昭和20年3月29日、「竹槍なくば唐手(空手)で」の記事

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