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松尾神社 (京都府木津川市山城町椿井松尾)
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松尾神社 (京都府木津川市山城町椿井松尾)

2022年2月9日

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社号松尾神社読みまつお通称旧呼称上の宮、樺井ノ社 等鎮座地京都府木津川市山城町椿井松尾旧国郡山城国相楽郡椿井御祭神月読命、大山咋神社格旧郷社例祭10月17日

 

松尾神社の概要

京都府木津川市山城町椿井松尾に鎮座する神社です。

社伝によれば当社の創建について次のように伝えられています(ただし後述のようにこのような伝承があったかは疑わしい)。

  • 天武天皇が壬申の乱で吉野から東国へ向かう際、この地で「大山咋神」の化身である「樺井翁」と軍議し、翁が姿を消したあとに残された宝珠をこの地に鎮めた。
  • 後に大宝元年(701年)に秦都理なる人物が霊夢によってこの宝珠を得、これを神体として宮殿を造営したのが当社の創建である。

前段部分について、神武天皇が「樺井翁」なる神(人物)と出会ったとする記録は国史に見えず、付会したものである可能性が高いでしょう。

「樺井翁」の由来も詳らかでありません。或いは綴喜郡の式内社「樺井月神社」(現在は「水主神社」(城陽市水主宮馬場)の境内に鎮座)に関するもので、当社に「大山咋神」と共に「月読命」を祀っていることもこれに関係しているのかもしれません。

一方、後段部分に見える「秦都理」とは京都盆地を開発した渡来系氏族である秦氏の人物で、京都市西京区に鎮座する「松尾大社」を創建したとされています。

大宝元年(701年)に秦都理が創建したとする伝承は「松尾大社」と全く同じであり、これがそのまま当社の由緒であるとは考え難いでしょう。

一方で上記社伝より後の天平勝宝年間(749年~757年)に当社が創建されたとする伝承もあるようです。

当地「椿井」は数々の偽りの「由緒」を創出した悪名高い「椿井文書」を作成した椿井政隆の出身地であり、当社の由緒に関しても彼が関わっていると見られ、全体的に信ずるに足りないと言わざるを得ません。

由緒を記した石碑に当社についての言及があるとして挙げている「興福寺官務牒疏」もいわゆる「椿井文書」であり、その内容は大いに疑うべきで、このような伝承があったのかどうかすら怪しいものとなっています。

なお、当社の南南東1.2kmほどの地(上狛高麗寺)に渡来系氏族の狛氏の氏寺の跡「高麗寺跡」があり、もし仮に当社が古く遡るものならば、彼ら狛氏が秦氏と関係を持っていたことは考えられるかもしれません。

 

当社は江戸時代以前は「上の宮」とも呼ばれ、これは近隣に鎮座していた「御霊神社」が「下の宮」と呼ばれていたことと対になるものでした。明治十三年(1880年)にこの「御霊神社」は当社境内に遷座しています。

当社の本殿は永禄十一年(1568年)に建立されたもので、元は「春日大社」(奈良市春日野町)の「若宮神社」の本殿だったものを文化五年(1808年)に譲り受けて移築したもの。古く貴重な建築として国指定重要文化財となっています。

また、本社本殿の右隣に建つ「御霊神社」の社殿は文政六年(1823年)に「春日大社」三ノ宮を旧地(下の宮)に移築し、遷座の際に現在地に移築したもので、京都府指定文化財となっています。

また、拝殿は慶長十五年(1610年)に再建されたもので、表門もほぼ同時期の造営です。これらも京都府指定文化財となっています。

その他、平安時代の神像「木造牛頭天王半跏像」「木造女神坐像」および江戸時代の絵馬も伝わっており(現在は山城郷土資料館に寄託)、いずれも京都市指定文化財です。

このように当社には豊富な文化財が伝わっている神社で、その由緒は怪しい部分が多々あるにしても、地域の人々に大切にされた歴史ある神社であることが窺えます。

 

境内の様子

当社は椿井地区の集落東方の丘陵上に鎮座しています。

境内入口には鳥居が南向きに建っています。この鳥居は鮮やかな朱塗りの両部鳥居で、稚児柱は石製となっています。

 

鳥居をくぐって右側(東側)に手水舎が建っています。

 

鳥居をくぐって参道をまっすぐ進むと正面奥に神門(表門)が建っています。

神門は本瓦葺の平入切妻造の四脚門で、十七世紀初頭に建立されたものと考えられ、京都府指定文化財となっています。

 

表門をくぐって正面奥に社殿が南向きに並んでいます。

拝殿は本瓦葺の平入切妻造で、桁行五間、奥行三間の大規模なもの。棟木の墨書から慶長十五年(1610年)に再建されたことがわかり、京都府指定文化財となっています。

 

拝殿後方に拝所および本殿が建っています。いずれも朱塗りを施したもの。

拝所は桟瓦葺の妻入切妻造で、前面が鳥居状になっているのが特徴。

そしてその背後に建つ本殿は檜皮葺の一間社春日造。

この本殿は永禄十一年(1568年)の建立で、元は「春日大社」(奈良市春日野町)の「若宮神社」の本殿だったものを文化五年(1808年)に譲り受けて移築したもの。古く貴重な建築として国指定重要文化財となっています。

 

本社本殿の右側(東側)に「御霊神社」が南向きに鎮座。御祭神は「素戔嗚尊」「天穂日命」。

かつて「上の宮」と呼ばれていた本社に対して「下の宮」と呼ばれ、明治十三年(1880年)に現在地に遷座しました。

拝所は桟瓦葺の妻入切妻造で、同様に前面が鳥居状になっているもののやや簡略化したものとなっています。

社殿は檜皮葺の一間社春日造。文政六年(1823年)に「春日大社」三ノ宮を旧地(下の宮)に移築し、明治の遷座の際に現在地に移築したもので、京都府指定文化財となっています。

 

本社本殿の左側(西側)に「市杵島姫神社」が南向きに鎮座。御祭神は「市杵島姫之神」。

社殿は銅板葺の春日見世棚造。

当社の勧請元と思われる「松尾大社」(京都市西京区)では本殿に「中津島姫命(=市杵島姫神)」を祀っているものの、当社では何故かこのように境内社として祀っています。

 

市杵島姫神社の左側(西側)にやや離れて「白山比咩神社」が南向きに鎮座。御祭神は「白山比咩之神」。

妻入切妻造の覆屋の中に銅板葺の春日見世棚造の社殿が納められています。

 

一方、本社拝殿の右側(東側)に六社の境内社がまとまって西向きに並んでいます。

 

これらの境内社の内、最も左側(北側)に「住吉神社」が鎮座。御祭神は「底筒・中筒・表筒」。

社殿は鉄板葺の春日見世棚造。

 

住吉神社の右側(南側)に「鍵取神社」が鎮座。御祭神を記した札は掠れて読めませんでした。

社殿は鉄板葺の春日見世棚造。

 

鍵取神社の右側(南側)に「皇大神社」が鎮座。御祭神は「天照大御神」。

社殿は銅板葺の小型の神明造。

 

皇大神社の右側(南側)に「春日神社」が鎮座。御祭神は「武甕槌之神」。

社殿は鉄板葺の春日見世棚造。

 

春日神社の右側(南側)に「高龗神社」が鎮座。御祭神は「高龗神」。

社殿は鉄板葺の春日見世棚造。

 

高龗神社の右側(東側)、最も右端に「恵比須神社」が鎮座。御祭神を記した札には「事代主神(蛭子神)」とあり、ここでの「蛭子」とは恐らく「ヒルコ」でなく単純に「エビス」の意と思われます。

社殿は鉄板葺の春日見世棚造。

 

境内の西側には当社の神宮寺だった「伝興寺」の跡地であることを示す石碑が建っています。

 

椿井大塚山古墳

当社と直接関係するものではないものの、当社の北西350mほどの地には古墳時代初期の三世紀末頃に築造されたと推定される「椿井大塚山古墳」があります。

墳丘長175mの大型の前方後円墳で、城陽市平川の「久津川車塚古墳」と並び山城地域で最大級の古墳です。

埋葬施設である竪穴式石室からは三角縁神獣鏡32面が出土しており、極めて有力な人物の墓であると考えられます。

豊富な漁具が出土していることから木津川の舟運や漁業を掌握した首長であるとする説がある一方、武埴安彦命など記録に見える人物とする説もあります。

 

椿井大塚山古墳の墳頂からは木津川が形成した京都盆地南端を一望することができます。

なお後円部にはJR奈良線の線路が通っており、墳丘が分断されてしまっています。

案内板

史跡 椿井大塚山古墳

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(平成12年9月6日 国史跡指定)

椿井大塚山古墳は、木津川を望む段丘上に立地する古墳時代前期初頭の前方後円墳です。墳丘の規模は、全長約175m、後円部直径約110m、前方部長約80m、前方部端幅約76mを測り、高さは後円部約20m、前方部約10m程度であったと考えられます。築造時期は、奈良県桜井市の箸墓古墳を頂点とする定型化した前方後円墳の出現時期(3世紀後半)にあたり、いわゆる邪馬台国の時代の古墳です。

昭和28年(1953)、古墳後円部を横断する鉄道の改良工事が実施され、偶然に発見された竪穴式石室から、三角縁神獣鏡三十数面を含む四十面近くの銅鏡や、おびただしい量の副葬品が出土しました。三角縁神獣鏡については、邪馬台国の女王卑弥呼が中国の魏の皇帝から賜った鏡とする有力な説があります。

椿井大塚山古墳は、邪馬台国の所在地論争ともからんで、古墳時代成立の鍵を握る記念碑的遺跡です。

平成13年3月 山城町教育委員会

 

タマ姫本殿とか拝殿とか古い建物がいっぱい残ってる神社なんだ!中世以来の神社の様子が今に伝えられていて貴重な神社と言えるわね。ただその由緒は疑問も大いにあるわ。トヨ姫

 

由緒

案内板

松尾神社

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天武天皇が吉野山より東国へ向かう時、この地で大山咋神の化身であるという樺井翁と軍議を談じ、翁が姿を消したあとに残された宝珠をこの地の後の鎮めとし、のち大宝元年(七〇一)に秦都理が霊夢によってこの宝珠を得て、これを神体として宮殿を創建したのがはじまりと伝える。

近世以前は、御霊神社が「下の宮」と呼ばれたのに対して、「上の宮」と呼ばれ、ともに椿井から上狛にかけての人々の信仰を集めていた。拝殿棟木に墨書銘があり、現在の拝殿が慶長十五年(一六一〇)に再建されたこととともに、有力農民の代表である「十二番頭」や、南村(上狛)と北村(椿井)の宮座一老、松尾社・御霊社の神主などの名が記されている。また、宮座に残されていた遷宮神事を行う時の絵図にも、狛野荘の荘官である下司・公文・トネの席や、有力名主によって構成されていた中老座・ばく老座の席、能や狂言を演ずる舞台や楽屋、はしがかりなどが描かれていて、これらから、中世の村政をつかさどった組織と松尾神社とのかかわりがうかがえる。なお、表門も拝殿とほぼ同時期の桃山時代の造立である。本殿は文化五年(一八〇八)に奈良春日社若宮本殿を移築したものであり、東隣の御霊神社本殿は、春日社三ノ宮を文政六年(一八二三)に「下の宮」に移築し、さらに明治十三年二神社併合により、ここに移築されたものである。中世村落における神社の面影をとどめる建物群である。

石碑

由緒

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当神社は松尾神社と摂社御霊神社、その他末社数社を境内に奉齊している。例祭は毎年十月十七日である。

松尾神社は古来下ノ宮の御霊神社に対し上ノ宮と呼ばれ、上狛、林、椿井郷の鎮守の社として栄え祭神は月読之尊であり旧郷社であった。社伝によれば通称樺井ノ社と呼ばれ天平勝宝年間(七四九~七五七)創建されたと伝えられ嘉吉元年(一四四一)の興福寺官務牒疏の記録によれば「樺井松尾神在同郡同郷産土神神供僧五人神人七人文武帝大宝元年降臨秦都理勧請也」とある。本殿は一間社春日造り桧皮葺で奈良春日若宮社の古殿を文化五年(一八〇八)拝受したとの文献があり大正二年四月(一九一三)に国の重要文化財の指定を受けている。

御霊神社は下ノ宮と称し椿井郷南端の小高い御霊山に鎮座されていたものを明治十三年(一八八〇)内務省の神社の統廃合令によって此処に遷され現在に至っている。祭神は素盞男之尊で旧村社であった。本殿は奈良春日大社の旧殿を拝受したもので春日神社御造営古物支配之記に「三の御殿山城狛村に遺す金物並に御道具添え金四拾両、、云々とあり両社共に春日神社とは深いつながりがあったのである。又藤原時代の木像牛頭天王半跏像等四体の神像も存し昭和五十八年には本殿並に拝殿楼門は京都府の登録文化財に神域一帶は自然環境保全地区に指定されている。

古来当社の神主は室町期より近世にかけて地侍、名主によって受け継がれ又宮座には中労座と白労座があって祭事の運営にあづかりなお招待には宮塔衆真言宗角之坊)や宮家衆、だらり講衆(真言の蛇羅尼経を唱える信徒)神童寺鷲峯山金胎寺等の僧の客分の席が設けられ祭日には和束天満宮より神輿の渡幸もあったと記されているが今ではその盛事をひそかに偲ぶのみである。

昭和六十二年二月吉日 松尾神社宮司 松岡秋夫 記

 

地図

京都府木津川市山城町椿井松尾

 

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