曲輪クエスト(364) 高崎市 寺尾町
『群馬解放 同和関係予算一覧表』によれば、高崎市寺尾町には1971年の時点で71世帯、人口303人の古村があったとされる。寺尾町内には斎場や知的障害者施設があり、それらが過去の歴史と関係があるのかどうか解明して欲しいとのリクエストを頂いた。
ただ、結論から言えばそれはあまり関係がないだろう。
図書館で寺尾町のことを調べても、あまり資料が見当たらない。むしろ「部落 寺尾」で検索すると、狭山事件の裁判に関わってバットで襲撃を受けた寺尾判事のことばかりが出てくる。
それでも事前調査を終え、現地を訪れた。
集落のつくりから、ここは街道沿いの町だったのであろう。実際、吉井街道が通っている。左側の自動車が走っているのが新しい道、真ん中の細い方の道が旧街道だ。
これは片羽集会所。昔はここがお寺だったらしい。しかし、ここは目指す場所ではないと感じた。
そこから街道を進むと、「中寺尾」というバス停がある。この付近が「中組」と呼ばれ、確かに昭和の頃は同和事業が行われていたという。
アイキャッチ画像のこれは、群馬県教育委員会の 『教育年報 第24号(昭和53年度実績)』の一部にかかれていた同和対策集会所の一覧である。「高崎市寺尾集会所」と書かれている。
電話帳では高崎市寺尾集会所があの建物がある場所の住所で登録されている。
看板には「高崎市寺尾交流館」とある。高崎市内の他の「交流館」と名のつく施設の設置場所を調べると、いずれも古村の場所であるように見える。単独では同和対策とは分かりにくくても、同種の施設の分布を調べると、同和対策であることが明らかになるということがしばしばある。
しかし、この「交流館」については、一見して同和施設であるようには見えない。同和だの部落だの人権だのといった掲示物は全くなく、現在は名実ともにただの集会所であろう。
付近の住民のよれば、前述のとおり、かつては同和事業が行われ、部落解放同盟も結成されていたということである。その頃には、貧しい古村というよりは、同和対策の金がいろいろと出て恩恵を受けているという印象が強かったという。
ただ、平成になってからはそういった話は聞かなくなり、今はもう誰も気にかけなくなったという。
この神社が気になったので近寄ってみた。
木板に書かれた人名は佐藤姓ばかりだ。これは「佐藤稲荷」であり、この近辺の佐藤家の守り神だという。しかし、これは古村とは無関係である。
白山神社がなかったか聞いてみると、それかどうかは分からないが、交流館の裏手に周辺の「湯浅」家が祀っていた神社があり、小さいながらも社殿があったが、交流館が出来る時になくなったという。もしかすると痕跡が残っているのではないかと思い、交流館の裏手に回ってみた。
確かに、なにやら由緒がありそうなものがある。石には「秋葉尊」「摩利支尊」と刻まれている。
そして、5つの小さな祠を見つけた。右から「八坂神社」「山の神」「白山神社」「愛宕神社」「城峰神社」と木札に書かれている。白山神社が真ん中で最も大きい。確かに白山神社で、しかも現存していた。
すると、交流館の裏手が目指す場所ではないか。
この空き地はおそらくかつては家があり、その間に細い道があった形跡がある。
この廃屋の横には…
寺か神社の境内だった場所を公園にしたような場所がある。
この地蔵らしき祠の中に木版が見える。
墨で書かれた名前がほぼ消えてしまっているが、「湯浅」「桜井(櫻井)」という名字がかろうじて読み取れる。
分布を検証するとこうである。吉井街道と衣沢川の間の部分の一角ということになるだろう。街道の町の裏手にあったことが分かる。
今はよその人がどんどん移住してきていると言われた。
確かにその通りで、建売住宅が好評分譲中だった。
なお、斎場はここからは少し離れていて、しかもかなり最近の2016年に新設されたものである。知的障害者施設はもっと離れたところにあり、これも1971年の建設なので、古村の歴史とは無関係であろう。
交流館周辺には、あちこちに新しい住宅が建っている。
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